2018年バックナンバー
雑記帳
東京大学開学のころに講義に使われた言語
一般に、日本人は英語が下手です。
アジアやアフリカの発展途上国の首脳が演説しているのを見ると、現地の言葉ではなく、英語やフランス語で演説しています。
流暢なのか、訛っているのかは、人それぞれです。
発展途上国では、現地の言葉では、高等教育を受けられないという事情があります。
現地の言葉には抽象語がなく、抽象的な思考が不可能であるという事情があります。
仕方がないですね。
宗主国の言葉である英語やフランス語でしか高等教育は受けられません。
日本でも、同じような時代がありました。
「東京大学大学院・留学生30万人計画実現に向けて」をご覧下さい。
「思い起こせば、東京大学が開学された約130年前(1877年)には、教授の総数は66名で、うち28名が著名なベルツやモースを含む外国人教授でした。したがって、明治初期の東京大学では英語による講義が半分近く占めていたと思われます。今に残る当時の学生のノートや卒業論文が英語で記載されていることからもそれが窺えます。あれから百数十年を経て、東大キャンパスでは再びかなりの講義を英語で提供するようになってきました。日本人教員による英語講義を留学生(学生総数の約8%)と日本学生が共に受講していることになります。」
その後、英語等の「抽象語」を「漢字」を組み合わせて作成し(「哲学」「民主主義」「共和国」など)、日本語だけで、大学教育を受けられるようになったのは、ご存じのとおりです。
「漢字」の「抽象語」は、本場中国に「輸出」しています。
中国で発明された漢字により、日本は大きな利益を受けています。
大和言葉だけでは、抽象的な思考はできません。
といいますか、日本に文字はありませんでした。
ただ、中国も、日本で作成された熟語により、大きな利益を受けています。
中国が、外来語の音そのままを、漢字の音だけで記述したのでは、抽象的な思考はできません。
韓国人が、自国語で、抽象的な思考が、必ずしも十分できないのは、漢字を捨てたからといえます。
戦前は、漢字で抽象的な思考ができていたのを、漢字を捨てたため、単に、外来語(日本語)の音そのままをハングルにしてしまったため、何が何かわからなくなっているのでしょう。
もっとも、韓国の人は、日本に比べ、外国指向が高いですから、韓国語ではなく、英語で高度な知識を学ぶという人も多いようです。
ただ、日本語で何でもできてしまうと、外国語の習熟に不自由が出ることになります。
高等教育も日本語で受けられますから、外国語は不要です。
法律家に外国語ができる人は少数です。
日本の法律は日本語で記載されているわけで、外国語の知識などは必要ありません。
ただ、医者は、少なくとも英語が「読める」人が多いです。
翻訳されるのを待っていたら、せっかくの新しい論文も陳腐なものになりかねません。
また、日本は人口が多くマーケットが大きいという事情もあります。
外国の本は、小説、論文など問わず、日本語訳がすぐでます。
マーケットが大きいですから、翻訳をしても割にあいます。
先進国であっても、オランダなどの小国では、マーケットが小さいので、翻訳をしても本は売れませんから翻訳されません。翻訳されないから、外国語の習得が必須となります。
発展途上国では、小説、論文など問わず、翻訳したところで売れません。
翻訳がありませんから、英語やフランス語の本を読むしかなくなってしまいます。
といいますか、植民地になっていますから、最初から英語やフランス語ができないと、それなりの地位につけません。
必要がないと外国語など習うという無駄なことはする必要がなくなります。
日本人が外国語が下手という理由の一つは「外国語を使う」「必要がない」ということにあります。
だからといって、外国語が下手ということを自慢するというわけにもいきません。