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2021年2022年バックナンバー

雑記帳

「羽田は国内、成田は国際」なぜ変化

 私は、昭和57年から昭和59年までドイツに留学していましたが、出発も、帰着も、成田空港でした。
 当時は、国際線は成田空港発着だったと思います。羽田ではありませんでした。

 「国際線は成田、国内線は羽田」という区分けが設定されたのは、昭和53年のことで、理由は成田空港(当時は新東京国際空港)の供用開始でした。

 新東京国際空港(成田空港)は、高度経済成長下における航空需要の増大によって、1昭和40年代には羽田空港のキャパシティがパンクするという運輸省(現・国土交通省)の予測から、首都圏に羽田空港を補佐する新空港が不可欠との判断のもと建設されました。

 これが大きく変わったのが、平成22年11月、羽田空港に4本目の滑走路である「D滑走路」が供用開始となったことです。
 工事技術の向上などから、着々と沖合への展開を進めることができるようになった羽田空港では、滑走路を増やすことで便数を増やせるようになりました。
 羽田空港には国際線の定期便が開設され、24時間利用ができる国際線ターミナル(現在の第3ターミナル)もつくられました。

 この当時、アジアでは仁川国際空港(韓国)やチャンギ国際空港(シンガポール)などは24時間利用ができる空港で、時差も韓国は0、シンガポールは-1時間ということで、最初は、このような都市間の国際便が多かったといえます。
成田空港は、周辺住民からの反対もあって24時間運用は難しかったのです。

 羽田空港を再度国際化させ、首都圏の国際線を羽田・成田の2地点体制とすることで、アジア他国の空港に引けを取らない国際線ネットワークを構築しようというのが、国土交通省の意図でした。

 こうして成田空港開港以来、成田空港に路線を開設せざるをえなかった航空会社が、続々と羽田空港に移転をしました。東京でオリンピックが開催されることにあわせ、国際線の大幅な増枠も決定していました。

 羽田空港が国際線を拡充したことで、アメリカのデルタ航空など、成田空港から完全撤退する航空会社も出てきました。

 成田空港の発着回数が減ったのかといえばそうでもありません。国際線の一部が羽田空港に移転しだしてからも、発着回数はむしろ増えつつあります。

 LCC(格安航空会社)が次々に出現しています。
 LCCが東京へ就航する際、発着枠がギリギリの羽田空港に乗り入れることは現実的ではありませんでした。
 そこで、成田空港がLCCを受け入れるようにしました。
 ジェットスター・ジャパンや、バニラエア(現・ピーチ航空)、エアアジア・ジャパンなどのLCCが、成田空港を拠点に多数の国内線を運航し、「安く手軽に旅行にいける空港」として生まれ変わり、現在に至っています。

 成田空港は不便ですね。というか、羽田空港が便利すぎます。
 関西国際空港も不便ですが、伊丹空港も結構不便ですから、あまり大差があるように感じられません。


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