2021年2022年バックナンバー
雑記帳
朝鮮戦争と日本
朝鮮戦争は、昭和25年6月25日に勃発し、昭和28年7月27日に休戦しています。
日本は、昭和26年9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約により主権を回復しています。
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させました。
日本の機雷掃海は、いわば世界一と言っていいでしょう。
日本は四方を海に囲まれています。
第二次世界大戦末期に、アメリカは、米国は「飢餓作戦」と呼ばれる輸送路断絶作戦を実施しました。
B29爆撃機を使って、爆弾の代わりに機雷を大量に海に沈めていったのです。
掃海する必要がありましたから、機雷掃海の力がついていきました。
平成27年時点の国別掃海艦艇の種類と総数は、以下のとおりです。
海上自衛隊-7種26隻
アメリカ海軍-1種11隻
フランス海軍-3種18隻
イギリス海軍-2種15隻
ドイツ海軍-3種16隻
ちなみに、現在、韓国海軍には、旧式の襄陽級という掃海艦が3隻あるだけです。
もちろん、能力も「?」です。
韓国は、機雷を敷設されれば、対応できず「一巻の終わり」になります。
話を戻して、朝鮮戦争回線直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していました。
アメリカ海軍第7艦隊司令官は、機雷対処を命じましたが、国連軍掃海部隊は極僅かであり、掃海能力はありませんでした。
アメリカ極東海軍司令官から日本の山崎運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請し、昭和25年10月7日、第一掃海隊が「特別掃海隊」として下関港を出港しています。
元山掃海作業では昭和25年10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分しています。
昭和25年10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出しています。
行方不明者1名は中谷坂太郎氏、65年間行方不明ですから、戦死でしょう。
その他、合計46隻の掃海艇などにより、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することを助けました。
戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦です。
第二次世界大戦後の日本の戦死者は、中谷坂太郎氏ということになります。
中谷坂太郎氏が、現在のところ、「最後の日本人戦没者」です。
日本は、昭和26年9月8日に締結されたサンフランシスコ平和条約により主権を回復しています。
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させました。
日本の機雷掃海は、いわば世界一と言っていいでしょう。
日本は四方を海に囲まれています。
第二次世界大戦末期に、アメリカは、米国は「飢餓作戦」と呼ばれる輸送路断絶作戦を実施しました。
B29爆撃機を使って、爆弾の代わりに機雷を大量に海に沈めていったのです。
掃海する必要がありましたから、機雷掃海の力がついていきました。
平成27年時点の国別掃海艦艇の種類と総数は、以下のとおりです。
海上自衛隊-7種26隻
アメリカ海軍-1種11隻
フランス海軍-3種18隻
イギリス海軍-2種15隻
ドイツ海軍-3種16隻
ちなみに、現在、韓国海軍には、旧式の襄陽級という掃海艦が3隻あるだけです。
もちろん、能力も「?」です。
韓国は、機雷を敷設されれば、対応できず「一巻の終わり」になります。
話を戻して、朝鮮戦争回線直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していました。
アメリカ海軍第7艦隊司令官は、機雷対処を命じましたが、国連軍掃海部隊は極僅かであり、掃海能力はありませんでした。
アメリカ極東海軍司令官から日本の山崎運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請し、昭和25年10月7日、第一掃海隊が「特別掃海隊」として下関港を出港しています。
元山掃海作業では昭和25年10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分しています。
昭和25年10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出しています。
行方不明者1名は中谷坂太郎氏、65年間行方不明ですから、戦死でしょう。
その他、合計46隻の掃海艇などにより、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することを助けました。
戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦です。
第二次世界大戦後の日本の戦死者は、中谷坂太郎氏ということになります。
中谷坂太郎氏が、現在のところ、「最後の日本人戦没者」です。