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雑記帳

武寧王

 平成27年7月5日、明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業が、ユネスコ世界遺産委員会の決議により世界遺産に登録されました。

 韓国が、戦時中に徴用された朝鮮半島出身者が一部登録施設で働かされたことを示すようにとのことで登録を妨害したことは記憶に新しいかと思います。
 6年経過しましたが、まだ、やっていますね。
 執念深いというか・・

 なお、世界遺産委員会は平成27年7月4日、韓国が推薦した「百済の歴史地区」の世界文化遺産への登録を決めています。同日の審査で、日本代表は、登録の全面的な支持を表明しています。

 百済歴史遺産地区は、以下のものを指します。
 (公州)公山城、宋山里古墳群(武寧王稜)
 (扶余)扶蘇山城と官北里遺跡、定林寺跡、陵山里古墳群、羅城
 (益山)王宮里遺跡、弥勒寺跡

 4世紀ころから7世紀まで、朝鮮半島から満州(中国東北部)にかけて、高句麗、百済、新羅の三国が鼎立していました。

 梁書という歴史書があります。

 梁は、西暦502年から557年、中国の南北朝時代に江南に存在した王朝です。
 梁書の東夷諸戎伝には「高句驪」「百済」「新羅」「倭」などの記録があります。
梁書の東夷諸戎伝には、高句麗・百済では音節の最後が母音で終わるのに対して新羅は子音で終わるので、百済と新羅が違う民族とされています。

 また、隋書東夷伝の百済の記載には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」つまり、百済の先祖は高句麗国の出身で、また、新羅人、高句麗人、倭人また中国人もいたという雑多な国だったのでしょう。

 ちなみに、高句麗が、中国の歴史の一部なのか、現在の韓国・北朝鮮の歴史の一部なのかは、中国と韓国間で争いがあります。
 滅亡した国については、どちらでもいいような気がしますが、そうもいかないということでしょう。

 百済は、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(錦江河口付近)で行われた、倭・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争で、倭が、百済遺民の要請で大軍をおくりましたが、唐・新羅連合軍に敗れました。百済は、最終的に滅亡しました。

 そして、唐は、668年に高句麗を攻め滅ぼします。
 唐の最終目的は、高句麗の滅亡でした。

 倭は、唐・新羅連合軍が攻めてくるのではと恐れましたが、唐と新羅が対立しました。
 新羅は、百済、高句麗の次は新羅が攻め滅ぼされるのではと考えていましたし、唐は、高句麗を滅亡させただけで十分でした。

 天智天皇は白村江の敗戦のあと唐・新羅による日本侵攻を怖れて、対馬や北部九州の大宰府の水城や瀬戸内海沿いの西日本各地に砦を築き、北部九州沿岸には、防人を配備しました。さらに西暦667年には、都を難波から内陸の近江京へ遷都しました。
 杞憂だったのですね。

 ちなみに、韓国では、白村江の戦いは学校で教えていないそうです。特に、韓国に不利益でもないと思いますが・・
 「白村江の戦はなかった

 話を戻します。

 百済は、高句麗から漢城を奪われた百済は、西暦475年、公州に都を移します。
 さらに、西暦538年に扶余に遷都します。聖王の時代です。
 日本に仏教が伝来したのは、西暦538年か西暦552年で争いがありますが、聖王の時代です。

 歴代の王は以下のとおりです。義慈王が在位中の西暦660年に百済は滅亡し、白村江の戦い(西暦663年8月)は、倭・百済遺民の連合軍で百済再興を試みました。
 東城王 西暦479年から西暦501年
 武寧王 西暦501年から西暦523年
 聖王 西暦523年から西暦554年
 威徳王 西暦554年から西暦598年
 惠王 西暦598年から西暦599年
 法王 西暦599年から西暦600年
 武王 西暦600年から西暦641年
 義慈王 西暦641年から西暦660年

 公州には、武寧王稜があります。実際には入れず、レプリカに入ることになります。
 副葬品は、国立公州博物館に展示されています。


 日本書紀(西暦720年)には「(九州佐賀県の)加唐島は、百済第25代国王・武寧王の生誕地と記されています。
 「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」「百済の末多王(東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としています(武烈天皇紀4年(西暦502年))。

 武寧王の出生地は倭(九州佐賀県)、生まれながらに倭の人質であったことになります。

 韓国の現存する最も古い歴史書は、三国史記(1145年)です。日本書紀の400年以上もあとに作成された史書です。
 韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないなど、韓国の人々には日本書紀の記録は受け入れ難いものでした。

 しかし、1971年、韓国の広州市武寧王陵から墓誌石が発見され、解明が進むうちに状況は一変しました。

 武寧王の墓誌石から、日本書紀の記載が正確であることがわかりました。

 墓誌石は「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と記載されています。
 誌石には「斯麻王」の文字とともに、在位23年(523年)に、62歳で崩御したことが刻まれていて、その数字から逆算すると、武寧王の生誕は461年。これは、日本書紀の記述と同じです。
 日本書紀の記事は正確であったことが証明されました。

 また、王棺は韓国に産しない高野槙で造られたものでした。
 高野槇は非常に堅くて湿気に強く、若干の香りもある最高級の木材です。
 この木は降水量が600~1200mm程度と豊富な日本の南部高地地帯のみに自生しています。
 近畿の古墳で確認されている木棺は、ほとんどが高野槇で、武寧王陵の2つの木棺に日本特産の木材が使われていました。

 また、副葬品には、翡翠の勾玉(曲玉)がありました。
 勾玉は、日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古く、翡翠は、日本の糸魚川付近でしか産出されません(ミャンマーにもあるそうですが、ミャンマーから来たものではありません)。

 ただ、これだけの物証がでてきても、韓国は、韓国の三国史記などの歴史書に武寧王が嶋君(斯麻王)と称したことや日本で生まれたとする記録がないというとの説を変えず、日本書紀の記載を無視して、武寧王の生誕地を、何の根拠もないのに、朝鮮半島と主張し続けています。


 韓国は、百済が倭に、仏教を伝えたと主張しています。
 ただ、仏教を伝えたのは百済のツングース系(満州系)の支配階級で、被支配階級の朝鮮族ではないというのが一般的です。
 ちなみに、百済に住んでいた王仁(わに)博士は、千字文と論語を伝えたと記紀等に記述されていますが、中国人です

 韓国に独創性があるとはいいにくいですね。
 なお、倭と百済の関係は、百済が倭に人質を差出すという関係でした。

 韓国の歴史書である三国史記には、仏教伝来の記述はなく、仏教伝来の記載があるのは日本書紀です。

 日本へ仏教を伝えてという韓国の歴史解釈は、日本書記に基づいたものですが、同じ日本書紀に記載されている自国に都合の悪い部分(武寧王の出生地は倭であり、生まれながらに倭の人質であったことなど)は、何の根拠も示さず否定するという客観性のない都合の良い歴史観ですね。
 ちなみに、この手法は、チェリー・ピッキング (cherry picking)といわれる典型的な詭弁術です。

 ただ、韓国の学者も、わかっているのでしょう。
 しかし、本当のことを公に発表すれば、その社会的地位を失います。
 かわいそうなものです。

 国立公州博物館には、武寧王稜の胸像がありますが、出生地は朝鮮半島と記載されています。何の根拠となる文献はありません。
 副葬品の勾玉(曲玉)は、倭由来であるとの歴史を知らないのか、堂々と展示してあります。
 また、武寧王の子である聖王の時代、日本へ仏教を伝えたというビデオを流しているそうです。ご丁寧に、日本語の案内もあるそうです。

 世界遺産に登録されたそうですし、見に行かれたらいかがでしょう。

「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」(ドイツ大統領。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)という言葉がありますね。
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