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雑記帳

任那

 平成27年4月9日、韓国の李完九首相が、緊急記者会見を開き「事実に基づかない歴史歪曲をしてはならない。真実を隠すことはできず、厳しい歴史の評価を受けるだろう」と批判したと報じられました。
 普通は、日本が、島根県の竹島が日本の固有の領土であると教科書に記載するようになったことについての記者会見と思いますよね。「緊急」記者会見までやる必要があるかどうかは別にして。

 違ったようです。
 日本の文化庁がホームページで朝鮮半島由来の文化財について「任那時代」と表記したり、平成27年4月6日に検定合格した中学校教科書に「任那日本府」が記載されたりしているとして「事実に基づかない歴史歪曲をしてはならない。真実を隠すことはできず、厳しい歴史の評価を受けるだろう」と批判しました。

 任那は日本書紀に登場しています。任那日本府とは、大和政権が、西暦369年に日本が伽倻7国を征服し、日本府という支配機構を設置して統治し、西暦562年には任那官家(みやけ)が滅びたと記録されています。

 中国の歴史書である魏志韓伝(魏志倭人伝と同じ歴史書の他の部分です)にも記載されています。
「魏志韓伝」

「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西」

「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限りとし、南は倭と隣接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓とは、いにしえの辰国のことで馬韓の西に存在する」などと書かれています。
 韓の東西の限界を海と書き、韓の南の限界を海と書かず、倭と接していたということです。海を渡る事なく倭の領土にたどり着けたという事は、朝鮮半島南部は倭の領土だったということになります。

 宋書倭国伝に記載されています。
 宋書倭国伝には、倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を受け、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の受けたと記述されています。

 中国吉林省にある高句麗の好太王(広開土王)の広開土王碑には「倭が新羅や百済を臣民とした」と記されています。
 韓国の学者が、日本による改ざんを唱えていましたが、平成18年に中国で拓本が発見され、改ざんがなく、「倭が新羅や百済を臣民とした」との記載がされていたことがわかっています。
 韓国は、高句麗を朝鮮史として主張していますから(中国は、中国史の一部としていて対立があります)、他ならぬ朝鮮の石碑に記載されていることになります。

 文書だけではありません。

 西暦1983年に、韓国に「前方後円墳」が発見されました。
 1983年に発見された「慶尚南道(韓国の行政区分)の松鶴洞一号墳」は、結局、時代の異なる複数の墳墓が重なったものであると後に判明するのですが、それ以降、全羅南道(韓国の行政区分)に11基、全羅北道(韓国の行政区分)に2基の前方後円墳が確認されました。

 日本の前方後円墳が3世紀から6世紀のものなのに対し、朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉、どう考えても日本が先です。

 朝鮮半島の前方後円墳から、翡翠でできた勾玉(まがたま)が出てきました。朝鮮半島に翡翠は出土しません。また、朝鮮半島の前方後円墳から、埴輪らしきものが出てきました。埴輪は日本の墳墓などからしか出土されません。

 反対の証拠は、何もないようです。
 「ない」という立証は難しく、「ある」とする主張に反論する資料等があればよいのですが、広開土王碑改ざん説どまりです。それも拓本の存在で消滅しました。

 別に、日本は、日本が4世紀から6世紀まで、朝鮮半島の一部を支配していたからといって、韓国に対し、もともと日本のものだから渡せと言っているわけではありません。
どちらでもいいことですね。

 令和3年に、6世紀前半のものと推測される韓国の全羅南道海南の北日面方山里の長鼓峰古墳が発見されましたが、すぐに、埋戻しがされています。
 「まずい」ということでしょう。
 中国は新幹線を埋めてなかったことにしますし、韓国は、古墳を埋めてなかったことにしようとします。
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