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2023年バックナンバー

雑記帳

渋沢栄一が、新1万円札に

 令和6年度上期をめどに、1万円札と5000円札、1000札の紙幣を刷新されます。
 新しいお札の顔は1万円札が渋沢栄一、5000円札が津田梅子、1000円札が北里柴三郎となり、明治維新以降の日本の実業や女子教育、医学研究を切り開いた人物が選ばれたことになります。

 渋沢栄一は、江戸時代末期に埼玉県の裕福な農家に生まれ、一橋慶喜(後の江戸幕府15代将軍・徳川慶喜)に仕え、幕臣としてパリ万国博に派遣されました。
 明治維新後は、民部省に勤めて貨幣や銀行の制度の調査立案を手がけました。
 退官したのち、第一国立銀行(現みずほ銀行)、王子製紙、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)をはじめ約500社の設立にかかわり、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。

 みずほ銀行は、第一銀行の流れをくみますから(第一勧銀・富士銀・興銀が合併)、金融機関コードが1番で、つまらないプライドがあるようです。
 つまらないプライドがあるのは興銀出身者も同じで、コンピュータシステム作成の際、お互いに譲らないため、しょっちゅうシステムトラブルを起こしています。

 話は変わって、ソウルの中心部、南大門近くに、90年以上の歴史を持つ韓国銀行旧本館があります。
 もと、朝鮮銀行として建てられた、日本統治時代の代表的な建物で、設計は辰野(金吾)事務所(東京駅や日本銀行と同じ)、建築は清水建設です。
 定礎は明治37年です。
 なお「明治」の文字は、例のごとく削り取られています。
 朝鮮戦争で破壊されましたが、その後復元され、韓国銀行本館として使用され、新しいビルが建てられたとき、前半分を残して整備され、平成13年に「貨幣金融博物館」となって開館しました。
 ここには古代から現在に致るまでの韓国の金融制度、また韓国や北朝鮮など世界各国の貨幣4500点余りが展示されています。

 ちなみに、渋沢栄一がお札の顔になったことは、はじめてではありません。
 李氏朝鮮は、近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けました。
 李氏朝鮮では、明治17年以後、日本の第一銀行韓国総支店(明治11年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになりました。
 第一銀行は、明治35年以降、大韓帝国(日清戦争のおかげで、清より独立しました)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化しました。
 当時の銀行頭取が渋沢栄一です。
 明治34年、明治35年に、渋沢栄一の肖像画の1円札、5円札、10円札が発行されています。
 民間銀行ですから、紙幣の顔を設立者にしても、全く問題ありません。
 朝鮮半島はじめの紙幣の肖像画が日本人ということになります。

 韓国が、令和6年の渋沢栄一の肖像画の1万円札をみたとき、謙虚に、自国の貨幣制度を整えてくれた恩人と評価くれればよいのですが、文句をいいだしています。
 ちなみに、伊藤博文が1000円札の肖像画にかかれたときもありましたが、その当時は、喜んで両替してくれたものです。


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