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よもやま話 バックナンバー2/2

ベスビオ火山と浅間山

ナポリ近郊にあるポンペイ遺跡をご存じでしょうか。
 古代ローマ人の住んでいた都市とローマ人の生活ぶりをほぼ完全な姿で今に伝える貴重な遺跡です。ローマからの半日ツアー(ソレントとセットにして1日ツアー)でおなじみのところです。

 西暦79年8月24日、ベスビオ火山が大噴火すると、南10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれてしまいました。
 その後、およそ1700年の時を経て始まった本格的な発掘によって、古代都市の様子が時が止まったかのように出現したそうです。

 発掘によって現れたポンペイの町は、整然と区画され、住居はもちろん、劇場や公衆浴場、下水道まで完備されていました。
 ついでながら、日本人ガイドは決していわないようですが、ドイツ人ガイドは「ここは娼館のあと」とはっきりいいます。あの狭い面積にしては、結構数があります。

 人口1万人以上の町には、壁画やモザイク画、市民が記した落書きなどが当時のまま残されています。

 ベスビオ山の大噴火により、逃げ遅れた人々は吹きつけた高熱のガスで窒息死し、その上に灰が降り積もりました。
 灰は硬く固まり、その後、遺骸が朽ちて空洞が残りました。
 博物館に行くと、その空洞に石膏を流込んだものが展示されています。

 たい焼き機(灰のかたまり)の中身(遺骸)がなくなってしまい、たい焼き機の鋳型(灰のかたまり)に、小麦粉(石膏)を液状にして乾燥させ、たい焼き機(灰のかたまり)の鋳型をはずしたようなものですね。

 家の中で身を寄せ合う家族、最後まで子どもに寄り添う母親、互いをかばい合うように抱き合う男女(夫婦、恋人)などの姿の石膏像があるそうですが、私が見た時は、仰向けになって両手をあげている男性の石膏像だけが展示されていました。

 日本にも似たような話があります。
 天明3年8月5日(1783年)、その春から噴火の予兆を見せていた浅間山が、大噴火を起こして噴出した土石流が、麓(ふもと)にあった鎌原村を襲いました。 「浅間天明大規模噴火」 に詳しく記載されています。
 鎌原村(北軽井沢)の高台にあった観音堂に逃げることができた人だけを残して、118戸570人が暮らしていた村は、家も田畑もすべて埋め尽くされてしまいました。
 高台にあった観音堂に避難した人は93人。その人たちだけが、奇跡的に助かりました。

 なお、噴火から約200年後の昭和54年、鎌原村の発掘調査が始まりました。
 調査の結果、観音堂への階段は50段あったそうですが、地上に出ているのは15段のみ、残りは土石流の石の中6mの深さまで埋まっていたそうです。
 そして、その埋もれた石段の下に、2人遺体が見つかったそうです。若い女性と年配の女性。親子だったのか、それとも嫁と姑だったのか、背負って逃げてきたように2人は折り重なるようになって骨となっていました。

 観音堂からみて15段より上に逃れた人は生延び、若い女性と年配の女性を含み、逃げられなかった人は死にました。
天明の生死を別けた十五段

 私は、東京で司法修習をしましたが、指導担当弁護士(亡くなられています)が、軽井沢に別荘をもたれていました。
 1週間ほど泊めていただいたのですが、昭和54年は大噴火から200年、発掘作業がされていたときのことです。

 鎌原村は「東洋のポンペイ」と呼ばれていると碑文に記載されていました。
 もっとも、ポンペイを「イタリアの鎌原村」とは誰も言いません。

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